
ちょうど日没頃らしい。窓の外ではつるべが素晴らしい勢いで落ちていっている様子だった。
「……それじゃ、睦未ちゃん、おねえちゃん、おじゃましました……」
雪音は靴を履き終わると振り返り、丁寧に頭を下げた。 おれは応えてひらりと手を上げ、おれの横に立っている暖花は唇を数字の3の形にし、眉尻を下げた。
「ご飯、食べてけばいーのにぃ」
「むぎゅ……ありがとうございます
暖花の台詞にほにゃっと笑い返すと、雪音はその笑顔のまま小首を傾げる。いい年をして子供っぽい仕草だが、こいつの場合見た目が未だに子供っぽいので、まあ問題なしといえるだろう。問題点はむしろ、二十歳をとうに越えたくせ、未だにそういった仕草が似合う容姿を保っちゃってるところにあるはずだ。いや、良いんだが。
「えとね……実はやくそく、あるから……」
「へええええ」
「ほおおおおっ」
そろって変な音階の声を上げてしまうおれと暖花だった。ついでに述べれば、暖花は声を上げるだけでなく、両手をどこかの暗殺拳のように禍々しくうごめかせていた。
「わおうっ、だれだれ? うわっ、まままさか雪音、おお、おとこ」
「取り乱してるんだか喜んでるんだか冷やかしてるんだかはっきりしろ」
「女の人だよ……ちよこさん」
「おんな!?」
「いや暖花、言うべきはそこでなく、犬じゃねえかってところだろう」
確かちよこさんとは、安藤家の3件隣のお宅の飼い犬だ。安藤家に赴く途中で前を通った際、その名札がついた犬小屋から、何度か愛嬌を振りまかれた記憶がある。って、犬と約束か……。
「あーなんだ、安岡さんトコの彼女ねぇ。ほーかほーか、雪音もどんどん人見知りが解消されてきてるんだねぇ。いいよいいよ、ガンガンおやんなさいな」
「むぎゅ……がんばります……炊飯器……」
しかし姉妹はそのあたりのズレをまったく気にせず、暖花は大仰にうなずいて腰のくびれに右手を当て、雪音は嬉しそうに平たい胸の前で両手をぐっぱぐっぱした。
「むぎゅ……あのね、ちよこさん、もうすぐお子さんが生まれるの……。それで、バイトのお給料出たらおいわい買っていっていいですかって、いいですよって、……それで、今日行くの」
「うんうん、そーゆー近所づきあいは、大事にした方がいーやねぇ」
「うん……冷蔵庫」
「うむうむ」
つっこみどころは満載なはずなのだが、極めて日常会話な姉妹だった。お祝いに行って良いですか、ってのは犬に聞いたのか飼い主に聞いたのか、非常に気になる。
「まあ、確かに暖花の言うとおり、次はゆっくりしてってくれや。夕食の材料を持ってきて、暖花がそれからなにを作るかまったく予想できずドキドキ、などという楽しみ方が推奨だ」
ともあれ、話の流れを微妙に逸らしたくなるのはおれの昔から変わらない癖である。軽く肩をすくめ、小さく頭を右側、つまり暖花側にひねって見せた。
「あたしゃそんなにエンターティナーじゃないっつうの」
そして暖花はこの手の話題にすこぶるレスポンスが早い。先ほどまでの鷹揚な笑顔はすぐさまにひっこみ、おれに向かって唇がとんがる。
「おれは毎日楽しませてもらってるが」
「そゆこと言ってるとお金取るぞもぅ」
「いくらくらい?」
「えっとね、現金じゃなくていいや。あたしアレ欲しいんだよね、新しいゲームパッド」
「今あるヤツ、この前買ったばっかじゃねえか」
「壊れてるよぅ! ってゆーか不良品。あたしが操作したとーりに動かないもん。ありゃあアレだよ、配線ミスとかドット欠け? とか、その手のヤツだぁね。よろしくないなぁ」
「暖花の新しい腕は、どこで売ってるんだろうなあ……」
「ムキーッ! あたしの腕が壊れてんじゃないっての! 悪いのは幡山くん!」
「幡山くんだったのか、あれは」
そこまで言い合って、そろってピタリと止まる。雪音が微笑をたたえておれたちを見ていたからだ。
「相変わらずでなによりです……」
「いや、恐縮です」
「あはははは……」
嬉しげな雪音に、おれと暖花は照れるしかない。犬も食わない類の言い争いも、雪音にとっては、嬉しくてしょうがないものであるらしい。 そういった意味では、雪音も込み込みで、相変わらずなおれたちだった。
「じゃあ、二回目だけど……睦未ちゃん、おねえちゃん、おじゃましました……」
「うん、まあそのなんだ、ちよこさんによろしく言っといてくれ」
「またおいでぇな、雪音。というか、またきてね」
「むぎゃ……おまかせあれ。それでは……」
最後にこくんとうなずいて、雪音はドアの向こうへ辞した。こん、こん、こん……と階段を下りてゆく音が、フェードアウトして消えた。 日は完全に落ちたようだった。窓の外はしっかり暗く、しかし雪音はもう、ひとりで帰れる。 季節はもう夏ではなく、そして昔のようではない。
そう。 ああいった決意をするほどに。
そこでほう、と隣から悩ましい吐息が聞こえ、視線を向ければ、固い握り拳を作った暖花がなんかクネクネしていた。 今度はなに拳だ。
「あ〜も〜、雪音はほんっと可愛いなぁ!」
言うなり拳は掌に変わり、ぺちんと傍らの靴箱を叩いた。暖花が右利きで、右側に立っていて助かった。おれはジャーパンのポケットに手を突っ込む。
「……とりあえず、それは姉バカではないとコメントしておこう。バカな姉ではあると思うが」
「まぁ、雪音に免じて、その暴言は許してあげよう」
「ありがとう」
「どういたしまして。いやさぁ、しっかし、アレだぁねアレ、ひっさびさに会ったけど、いつの間にか交友範囲も広がってるみたいだぁねぇあの子」
「久々っても2週間くらいだし、相手は犬だけどな。まあ、犬見知りをしていた時代からすると、えらい進歩じゃあるけども」
「でもさぁ、相変わらずちっちゃくて可愛くて、それを見るのがまた嬉しいわけよぅ。うーん、娘がいるって、こんな気分なのかなぁ」
「姉が言う台詞じゃないな、それは……」
「あたし、仕事柄いろんなお子さん見てるけど、雪音より可愛い子は見たことないね、うん」
暖花の勤務先は保育園であり、職業は保育士(いわゆる保母さんだ)であり、見ているというのは当然乳児から幼児の子供である。子供と大学院生を平然と比較してのける豪快さは、まあ、子供の相手をするには必要なのだ、と解釈しておくとする。いわゆるひいきの引き倒しだ。
「睦未」
「うん?」
「自分の子供だったら、どう見えるかな」
「……」
ポケットの中で、おれは握った手の形を変えた。暖花は一瞬だけこちらを見て、なにかしらの信号を送ったようだった。その信号は、恐らく世界でおれひとりしか受信できない。 それは分かっているし、その信号が意味するところもまた、分かっていた。
大学を卒業して、半年ほどになる。 そして、暖花がこの信号を発信するようになって、どれほどだろうか。 おれが目を覚ましたあの夏の、終わり頃からかも知れない。いや、それ以前から、ずっと、なのかも知れない。 いずれにせよ、おれにはそれを受信する装置が備わっている。 受け取ったそれに同調し、震える発信体も。
同時に、現実に思いを馳せる、ある種の計算機も。
「……暖花も、明日は仕事だろう?」
「え? あ、うん、そだけど、さ」
「ま、明日は給料日だし、仕事終わったら待ち合わせてどっか食いに行くか。さて、明日はともかく、飯にしようぜ」
「……」
暖花は半秒だけ動きを止める。 しかしすぐ跳ねるような動作でおれに腕を回し、頬へと口づけをくれた。
「うん、いこ」
柔らかい体が押し当たっている。耳元で、ささやく声。 こいつは分かってる。 だからこそ、おれは考える。
この共振を現実に下ろすには、どうすれば良いか。
だからこそ、もう少しのウェイト。 そして、aをeに換えて、iのあとにghを挿入。 ともすればどこまでも浮かび上がってしまうものには、そんなことたちが、あとほんの僅かばかり必要なのだと。 そう分かるだけの年数、おれは暖花と一緒にいる。
* *
茶碗の中の米粒量がゼロになった。
「おかわり」
「はいよぅ。たくさん食べて大きくなれよぅ」
ちゃぶ台の向こうへ茶碗を差し出せば、素早い返答と明るい笑顔が返ってくる。 数え切れないほどの夕食の風景の中で、数え切れないほど、こいつとこういう会話を交わした。
「言われるまでもなかった」
だからおれは、きちんと正座した長年の相手へ向けて、まだ、いつも通りの台詞パターン。
「なんで過去形?」
「成長期は終わってるからなあ」
「自分で限界を決めちゃうから、成長しなくなるわけよぅ」
茶碗をおれへと返しながら、暖花はニヤリと笑みを浮かべる。我ながら気の利いた、スパイシーなことを言っている、とでも思っているのだろう。
「おまえは少し、成長した方がいいな」
応えるおれの視線は一瞬だけ受け取った茶碗の中を滑り、そして、暖花の目へ向く。 暖花はおれを見ている。 年数を経ても、変わらず。
「どーゆー意味よぅ」
「なら聞くが、今日の夕食、なにを作ろうとしてたんだ?」
「えーとね、コロッケだぁね。おイモをたくさんお裾分けでいただいたからね、これはチャンスだなぁと」
「で、この料理の名前は」
「ん? マッシュポテトのグラタン」
それがなに? とでも言いたげな首の角度だった。改良すべき点に気付いていないのも、成長しなくなる一因だろうな……なんて台詞が浮かんだが、口にするのはやめておく。 まったく、日常風景だ。 つくづく暖花だ。
「ああ、そうだ。暖花、アレ取ってくれ」
「ん」
すぐに意を汲んだ暖花は、ナメタケのビンを取ってくれる。 どうもと礼を述べて受け取り、受け取りざま、ひとつ小ネタを思い出す。
「いちおう言っておくが、ナメタケってのはキノコの種類じゃないから要注意だ」
言えば暖花の目は細くなり、
「あのねぇ」
しかし、視線がおれから外れることはない。
「なんだ。おまえもナメタケ使うか?」
「『アレ』じゃわかんねーっつうの」
「分かってるじゃねえか」
「いやめちゃくちゃ分かるんだけど、分かんないのっ!」
「なにを言っておるのだおまえは」
「あのね、そーゆーのは、長年連れ添った夫婦がやるもんでしょうがっ」
ぴしゃん、と箸がちゃぶ台に接触。 口調は激しいし、オフサイドラインギリギリだったが、その表情は笑顔だ。暖花ジョークである。 だけど、おれは、
「おれもそう思う」
真っ正面から蹴り返し、
「……」
そして暖花の目は、大きくなった。
「あっ……あたしも、そう、思う……」
こくこくこく、とうなずきが三回。 みるみる首筋に赤みが上ってくるのが見て取れる。
「うん」
「うん……」
ああ、こいつは、待っている。 その反応で、改めてそう思った。
「……ところで、おかわりだ」
「え、あ、って、はや!」
「早くないぞ」
「めちゃくちゃ早いってば! いつ食べたんだっての!」
ぴ、とおれは手元に置きっぱなしだった茶碗を指さす。
「米、入ってなかったもんで」
「ぎゃふん!」
がちゃんと暖花はちゃぶ台に突っ伏し、おれはコロッケになれなかったマッシュポテトのグラタンを改めて口に入れた。
「上手くいかねーなぁ……」
「メシは旨いぞ」
「どうもありがと……」
「そりゃ、こっちの台詞」
このグラタンは、暖花が作って、しかし暖花とは違う。
* *
風呂から上げると、先に上がってパジャマに着替えていた暖花が、座布団に座っていた。 短めにした髪は、水気を帯びてぺたんとなっている。恐らくおれも同じだろう。口元に笑みを浮かべてみせる。
「上がったぞ。次暖花どうぞ」
「あたしゃもう入ったっての」
「何度入っても良いもんだぞ」
「まじカンベン」
「そりゃ残念」
「残念はこっちだよぅ。せっかく、睦未も上がったのに」
「そうだな」
「その、なんだ、その……一緒なら、いーけど」
吹き出しそうになるのをこらえながらうなずくと、暖花はさささと尻の位置を変え、体ごとおれの方へと向いてそう言った。 顔が赤い。 おれはつり込まれるように歩み寄り、キスをした。
「……は」
暖花の肩から力が抜ける。 おれはそのまま、耳元へ唇を寄せる。
「暖花」
「うん……」
ささやきに暖花は震える。 その震えは、おれに共振する。
「好き、だ」
「あっ……あたしも、あたしも……っ」
手が持ち上がり、
「あたしも大好きだよぅ……睦未……」
おれへと、触れる。 まいにち繰り返す、何年も続いた言葉の交わし合い。
「睦未……」
暖花の手が、おれの服を強く握る。 目は潤み、頬は紅潮し、幸せそうな笑み。 おれは暖花の髪に触れる。 保育園の子供が引っ張るから、という理由で、暖花は学生時代ずっと長くしていた髪を切った。 繰り返して来たこんな最中に、さらさらと梳ったりもてあそんだり、という互いにとっての楽しみは、以前暖花が気にしていたとおり、だいぶん少なくなってしまったけれど。 その代わり、こうして耳元でささやくことも、ささやくたびに血が上ってくる首筋の風情を見ることも、しやすくなった。 そして、仕事のために髪を切る現実感は、やっぱり。 ふわふわと上りがちな思いを、現実に下ろそうとする感覚で。
それはつまり、現実にできるまで待ってもらったおれと同じ、ふたり積み重ねてきた夜の、時間のなせるわざ、なのだろう。
暖花は潤んだ瞳を向けて、
「むつみ……」
吐息混じりの声が「それ」を乞うた。
この最中だから言わないと。この最中にこそ、言わないと。 そう思って今日まで、そして今日、ここまで引っ張ってきた。 ずいぶん待たせた。待ってくれてた。 毎日繰り返す言葉の交わし合い。 その中で言いたいと。
「暖花」
おれは震える耳元に唇を寄せたまま、
「うん……」
暖花は震える唇を耳元へ覚えたまま。 思い描いていたそれを、現実へと、下ろした。
「結婚してくれ」
「あ……っ」
つまり、ふたり、共振していた。
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