まいにち好きしてif
「プロポーズ」
雪音編:最終回(全3回)

イラスト・ミヤスリサ
文・保住 圭





  雪音の目が大きくなった。

 まばたきを止めたその目を、おれはのぞき込むように見ている。こうして腕の中に雪音を収めているとき、いつもするように。
 小さく細い雪音の体に、力が入った。
 それが分かった。

「……」

 まばたきはまだなく、すぐの返答もなかった。おれは砂地に染みこんでゆく水を連想している。そこに不安はない。どうあれ、おれは、言うべきことを口にした。

「……」
「……」

 しばらく見つめ合いながら、考える。
 どうしておれは、言うべきだと思ったんだろう。
 暖花は「『いつも通り』からの帰着」を示唆した。それは確かに的を射ている。しかし一部だ。すべてじゃない。
 この腕の中の愛しい生き物との6年間を、おれは順を追って思い出す。
 長い昏睡から目覚めて。
 ひと夏、こいつといっしょに過ごした。
 夏が終わる頃、はじまって。
 それは今、この瞬間までも続いている。
 ずっといっしょで、離れることはあってもそれは一時で、結局はふたり、ここに戻ってきていっしょになる。
 その帰着として、おれは自然に「結婚」というものを決意した。
 自然だ。少なくともおれにとっては、疑いようもなく自然だ。特別で当たり前、それが、この腕の中の愛しい……安藤雪音だと、思うのだ。
 しかし、とおれは考える。
 おれにとっては6年間。しかし、雪音にとってはどうだろう。 あの夏より前の記憶が、おれにはない。しかし、雪音にはそれがある。
 雪音にとってはじめてできた、肉親以外に気を許せる人間。臆病な小動物であった雪音が何故、おれにそのポジションに着くことを許したか。おれは知らず、雪音は知っている。
 その相手が、一年間目を覚まさず、目覚めたときにはそれまでの記憶をなくしていた。自分のことを覚えておらず、自分と過ごした時間の記憶がない。そんなことに直面した人間の抱く感情を、おれは知らず、雪音は知っている。
 そうか、とおれは思い当たる。
 おれと雪音では、「今まで」という言葉が内包しているものに隔たりがあるのだ。
 雪音は、「今まで」が突然失われることを知っている。 雪音はそれを間近で見た。おれが目を覚まさないあの一年で、恐らくは噛みしめたことだろう。
 おれが知っているのは、「失われることを知っている雪音」。そして、失わせたのは他でもない、このおれだ、ということ。
 それでもおれたちは寄り添い、互いを大事に思いながら6年間を過ごし、気が付けば、こんな年齢になった。
 雪音が変わろうとし続けているのは。
 たぶん、いつまでも続かないものを知っているからだろうし。
 そんな雪音を知っていて、そんな雪音を通してそれを知ったおれは。
 自分の持たないものを。

「……」

 だからこれは、約束だ。
 それ自体にはなんの保証もない。だけど、だからこそ、口にしなきゃいけないと。
 時間は流れ、なにもかもが変わってゆく。雪音はその例に漏れず、相変わらずだと意地を張れど、おれですら例外ではない。
 おれたちは歳を取り、いつの間に子供じゃない。
 それでも。
 だからこそ。
 これからもいっしょにいたいと。
 いっしょにいて欲しいと。
 変わらず、いっしょにいたいという意志があると。

 思うから、言った。

「結婚して欲しい」
「……はい」

 雪音が答えた。

 *  *

 その目が潤みはじめる。

「雪音」
「睦未ちゃん……ちょっと、いったん離れて、いいかな……」

 おれはうなずき、手を離す。
 1メートル半ほど距離を開けると、雪音はちんまり正座。

「……」
「……」

 こちらも座り直し、正座で向かい合う形になる。
 一度雪音は下を向く。
 さらりと髪が流れる。
 おれはただ待っていた。

「睦未ちゃん……」

 雪音の手が、前に伸び。
 親指、人差し指、中指の3本が、床に触れる。

「……末永く、可愛がってください……」

 ゆっくりと、深々と、雪音は頭を下げ。
 ささやくように、そう言った。

「言われるまでもない」

 おれはすぐに答えた。跳ね上がりそうになる体を押さえ、雪音と同じく頭を下げる。

「末永く、可愛がらせてくれっ」
「お願いします……」
「……」
「……」

 同時に顔が上がった。

「……」
「……」

 しばらく、言葉もなく見つめ合う。
 雪音の頬は染まり、口元は微笑。
 細くなった目は、今にも涙をこぼそうとしている。
 おれの手は、今すぐに抱き寄せたがっていた。

「……上手く、言えたかな……」
「そりゃあ、こっちの台詞だ」
「睦未ちゃんは……いつもといっしょ、雪音が安心する……言い方でした……」
「そうか」

 おれは密かに息を付き、同時に納得する。
 時が過ぎ、どんなに変わっても。
 雪音がいるから、おれは、「いつも通り」であろうとする。
 何故なら、それが雪音に愛されていると、自覚していたからだ。

「そりゃま、なによりだ……うん、まったく、なによりだ」
「雪音はね……練習してたの」
「返事をか?」
「うん……鏡に向かって。睦未ちゃんが言ってくれたら、こう答えようって……」
「……待たせちまったか?」
「ううん……少し、早かったかも……」
「早かったか」
「雪音ね……睦未ちゃんと、ずっといっしょにいたいって、思ったけど……」
「おれも思う。思ったから」
「けど……このままじゃ、だめな気が……したの」
「なにが、駄目?」
「むぎゅ……とか、自分のこと、雪音……って言う奥さんは、どうかな……と思って」

 手がまた、抱き寄せたいと、強く衝動した。
 おれはまだそれを抑える。雪音の言葉には続きがある。

「雪音は、睦未ちゃんのお嫁さんに……なりたいって、思ってたから……」
「……」
「睦未ちゃんは、きっと言ってくれるって……勝手に思ってたから……」
「……」
「それまでに、自分のこと、わたし、って言えるように……なっておこうと、思ってたんだけど……」

 雪音の目は、ついに涙をこぼす。

「むぎゅ……雪音、まだ……だめみたい。だめみたいなのに……うれしくて、どうしようもないみたい……」
「……えーと、スマン、おれも駄目みたい」
「……むぎゅ?」

 おれはようやく、雪音をたぐり寄せた。

「……睦未ちゃん」
「いっしょにいたいと思うから……まったく、おれもおまえも、こうなわけだ。はは……」

 抱きしめる。キスをする。また抱きしめる。
 雪音は小さく吐息した。また涙が流れる。
 おれは唇を寄せその涙を吸って、そのまま額の髪を掻き上げキスをして、また抱きしめた。

「……睦未ちゃん」
「こうやっておれたちは続いてきたし、こうやってこれからも続けていきたいから、こうなわけだ。はは」
「でも……雪音たち、結婚するんだよ……」
「そらそうだ。これからもこうしていたいんだ。こうしていきたいから、結婚する。そうだろう?」
「うん……そうです」
「これからも雪音がいるんなら、おれはおれだし」
「これからも睦未ちゃんがいるなら……」
「雪音は雪音だ」
「うん……」
「早くも遅くもない。これは、それを約束したんた。雪音が雪音なら、雪音は雪音がそうなりたいと思う雪音になる。だから、早くも遅くもない」

 雪音はおれの腕の中で、少し恥じらうように睫毛をはためかせ、そして、おれの服を握る。

「わたしって、言えるように、なれるかな……」
「なれる。おれがいるだろ」
「睦未ちゃんは……どう思う?」
「なにが?」
「雪音……自分のこと、雪音って言うのと……わたしって、言うの……」
「雪音が、言いたいと思う方を言ってるのがいい」
「うん……じゃあ、今日が最後……」
「うん」
「今日までは……雪音で、明日からは……睦未ちゃんの、お嫁さん……だから」
「まったく持っておれが言うなの世界だが、そゆこと言われると、実にこそばゆいな」
「むぎゅ……」

 雪音がおれをのぞき込む。
 おれは笑って見せた。

「おうよ。そんじゃあ明日、手配するか」

 雪音がくすっと微笑する。

「いつも通りだね……睦未ちゃん」

 そして、握っていた手を離し、おれの首にしがみついてきた。

「大好き……です」
「ありがとう。おれも、大好きだ」

 おれは優しくそれを受け止める。それが、おれのいつも通りだからだ。

「ずっと……睦未ちゃんの、お嫁さんに……なりたかったんだよ……」
「おまえ、その昔、消防車になりたかったって聞いてるけど?」
「うん……消防車さん、背がすごく伸びるから……。でも、消防車は、睦未ちゃんといっしょにいられないよ……」
「ごめんな、おれは、おまえが消防車になりたいって言ってたことを、覚えてない」
「だから……今があるんでしょ……?」
「……」

 一時、抱き合っていた体が離れる。
 互いの手は互いの肩。
 互いの視線は互いの目。

「そうだな」

 思った。
 互いにとって、またひとつ、

「だから……ひとつ、お願いして……いいかな……」
「うん」
「今日が、雪音……こういう風に言うの、最後です……」
「うん」
「……むぎゅむぎゅ……して、ください……」

 続けるための、読点が打たれたと。


 *  *


 数ヶ月後の結婚式は、なかなかいい感じに晴れた。

「わざわざ悪いな、朔太郎」
「あいや、いえいえ、そんな演歌歌手みたいな格好をした睦未さん、なかなか見られるものじゃないですから。いいものを見せていただいてます」
「雪音のカッコはもっとすごいだろう。おれが演歌歌手なら、向こうは紅白出られるぞ」
「僕、雪音さんはまだ拝見してないです」
「おれもまだ」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「そうする。ほんじゃ、またあとで。教育実習の話は、そのとき聞かせてくれ」

 式が始まるまであと1時間ほど。おれは大学の友人……年下で後輩だが友人だ……としていた立ち話を切り上げ、新婦側の控え室に行ってみることにした。

 あれからのおれの行動は早かった。次の日安藤家に雪音を連れて赴くと、旦那と安藤ママに「お宅の娘さんをいただきに来ました」と報告。大笑いと「とっくに持ってかれてる」なんて言う快諾を得ると、次いでおれの実家へ。親父とおふくろに向かって「そういうことで雪音と結婚するから」と宣言し、「そういうことなら好きにしなさい」なるよく分からない承諾を得た。そしてすぐさま家に帰ってふたりの貯金を確かめてみると、まあなんとか些細な身内の披露宴程度ならできそうだったので、すぐに式場を予約した。

「備えあれば憂いなし……だね」
「まったくだ」
「それにしてもスピード出世だね……」
「鉄は熱いうちに打った方がいい」

 というやりとりがあったわけだが、つまりまあそういうわけで、準備期間の数カ月を経て、今日に至った。

「招待する人の都合さえ合えば、すぐにでも式を挙げたんだが……」

 歩きながらひとりつぶやく。まあ、そういうしがらみも、あってしかるべきだ。結婚しようとするだけ、おれたちはそういう年齢になっている。

「おっ、睦未じゃん」

 なんて声がした。正装の暖花だった。
 ちょうど雪音がいる控え室の前。今し方出てきたところらしい。

「演歌歌手だねぇ」
「よく言われる。さっきも言われた」
「雪音はもっとすごいけどね」
「見に来た」
「ひっひっひ」

 ひと笑いすると暖花は急にまじめな顔になり、つかつかと歩み寄って来て、握り拳でおれの肩を叩いた。

「何度も言ってるけど、おめでとう」
「うん」
「……」
「……」
「今気付いたんだけどさぁ」
「なにを」
「あたし、あんたの義理の姉になるのかぁ」
「そうだな」
「なんつーか、微妙な気分だわなぁ義弟さんよ」
「まったくだなお義姉さん」
「……」
「……」

 おれと暖花は、ほぼ同時に吹き出した。

「雪音、すっごいきれいだよっ。見てびっくりすんなよぅ?」
「びっくりしたいね、むしろ」
「うん……まあそのなんだ、お幸せに」
「言われるまでもない。それと、何度も言ってるけど、改めて言っておきたいことがある」
「なぁに」
「ありがとう」
「言われるまでもない」
「……」
「んでもま、決めたのはあんたらだわなぁ」

 暖花はもう一度、おれの肩を叩く。

「今日はいい日だよ」
「これからもいい日だろうな」
「……」

 その返事が、おれなりの返事だった。暖花に感謝するなら、暖花の気持ちの分、幸せな日々を過ごすと、口にした。

「だぁね。それじゃ、あとで」
「おう」

 互いひらりと手を振って、別れる。
 そしておれは控え室に入った。

「……」

 息を飲んだ。本当に雪音が綺麗だったからだ。

「……睦未ちゃん」

 花嫁衣装の雪音が、おれの名前を呼ぶ。

「おう」
「いよいよだね……」
「そだな」

 おれは椅子に座れずにいる。

「籍は……明日、入れるんだよね……」
「そのつもり」
「そうしたら……わたし、名実ともに、睦未ちゃんのお嫁さん……だね」

 雪音は笑い。
 おれは雪音に歩み寄り。

「……っ」

 抱き上げた。

「綺麗だ」
「ありがとう……」
「雪音」
「なにかな……」
「今日はいい日だな」
「今までも、そうだったし……これからも、そうだよ……」

 おれは破顔した。

「そうだな。まったく、そう思う」
おしまい。