まいにち好きしてif
「プロポーズ」
雪音編:第2回(全3回)

イラスト・ミヤスリサ
文・保住 圭



 自宅のドアを開けると、玄関先に小柄な女がちんまりと見慣れた姿勢で座っていた。

「ただいま」
「お帰りなさい……」

 柔らかくほにゃっと笑い、立ち上がる。おれの顎より下に位置しているそいつの目が、一年通してまったく変わらないぽんやりとした気配を漂わせつつおれを見ている。おれはとりあえず意味もなくピースサイン。帰ってきたのは目を細めた微笑。ストレートの長い髪が、肩口でさらさら言っている。

「……睦未ちゃん、お酒をきこしめしてきたんだね」
「お分かりいただけたようで」

 あらかじめ頭にネクタイを巻いて言外にアッピールしていた甲斐があるというものだ。

「雪音はもうメシ食ったか?」

 靴を脱ぎ、羽織っていた上着を脱ぎながら問いかける。

「いただきました……」

 その上着を受け取って一瞬抱きしめながらの、こくんと小さいうなずきが帰ってくる。

「メニューはネギトロ丼」

 手を洗いながら、おれは口の端を上げた。

「なんで分かるのかな……」

 びっくりしたような(しかしゆっくりとした)声。上着を掛けたハンガーを背伸びして掛けている。相変わらずちっこい。

「そりゃ、おれが作って冷蔵庫に入れておいたからだろうが。雪音が好きなもんだからな、その辺の店の人に作らせちゃ、もったいない」

 言うと、ぱちぱち数回まばたき。そしてじんわりと微笑。

「ごちそうさまでした……」

 礼を述べるようなことじゃない、と言う意味合いで手を振れば、今度はぷるぷる頭を振る。長い髪が銀河系の形に広がり、おれはその艶に少し見とれた。

  *  *

 さて、今更言うまでもないが、このゆっくりしゃべるちっこいのがあの安藤雪音さんだ。歳はおれよりひとつ下だから、今年でえーと23歳になる。だが外見は大学受験前に見え、しかしその実体は修士課程の大学院生で、そしてそう言ってもたいていの人には信じてもらえない。つまりめちゃくちゃ幼い外見をしている。
 院生になるまではここ(おれの部屋)と実家を行き来する住所不定のジプシー女だったのだが、すっぽり大学院に収まってからはめでたく同居人となった。区切りがついた、あるいは家族も納得する状況が出来たから、と言うことなのだろう。それまでも頻繁にうちに泊まってはいたが、毎日ここで暮らすのは何年ぶりになるんだろうか。いや「だろうか」ってホントは知っているんだけど、こう言った方が感動している感が出るからな。
 それはともかくとして、
 なんというかその、
 おかげさまで、
 ……毎日楽しい。
 くそ、言わされた(誰に)。
 だから玄関先に座っていた訳なのだが、それは別にこいつの趣味ではなく、単におれを入り待ちしていただけのことである。おれが帰ってくるのが待ち遠しくて、あとちょっとひとりはさみしくて、ドアが開いたらすぐ分かるところにいたい、のだそうだ。そのあたりは「好きにしなさい」と言ってあるので、今日も好きにしていたらしい。


 いや、恥ずかしくて、とても面と向かっては言えないが。
 いつも灯りがついている部屋に帰ってこられる、ドアを開ければすぐそこで、おれの帰りを待っている人がいる、つまり「好きにしてくれてる」と言うのはとても、うれしい。
 それが雪音なのだから、もう、これ以上ない。
 面と向かっては言えないが、言うまでもないことだ。


 何時に帰ってくる、と言ってもその1時間前から入り待ちしているようなので、最近は帰宅予定時刻を遅めに言っておくことにしている。いくら好きでやってることとはいえ、玄関先に長い時間待たせておくのは心苦しいからな。今日はものの数分も待たせていないはずだ。

  *  *

 部屋着に着替えると、おれは淹れたばかりのお茶片手に所定の場所へ座る。それを眺めていた雪音は、3秒ほど考えてから小首を傾げた。

「……となりに座っても、いいかな……」

 何年経っても、律儀に断りを入れてくる。こう言うところは見た目同様、ちっとも変わらない。おれは手招きする。

「いらっしゃい」
「おじゃまします……」

 ゆっくり腰を下ろすと、洗い髪のにおい。メイクも落ちてるしパジャマも着ているし、もう風呂に入ったのだろうとおれは判断する。いつの間にかこいつは、ひとりで風呂に入れるようになった。当たり前というか普通のことなんだが、雪音という人間を良く知っていると、そうなるまでにどれほどの出来事を通過してきたか、つい思いも馳せてしまうと言うものだ。

「……」

 そして雪音は、おれの顔をじっと見て来る。

「……酒臭いから」

 雪音の考えていることが知れて、おれはとりあえずお断りを入れる。

「全然……いいよ」

 返事にはまったくためらいが伺えない。

「ふむ」

 ちゅっ。
 キスをした。

「むぎゅ……」

 雪音は目を細め、うっとりした顔でそうつぶやいたと思ったら、

「……じゃなくて、えと……」

 なにを言うべきか困っている顔に変わる。細まっていた目は、すでに大きくなっていた。

「チャレンジキャンペーンはまだまだ開催中なのか」
「うん……冷蔵庫、……じゃなくて、開催中です……」
「別に無理して言葉遣いを変えることはないと思うけどなぁ」
「でも……雪音は、あ、わたしは、そうした方がいいと思うから……」
「まあ、雪音がそうしたいのなら別に反対はせんがね」
「……でも、なんで雪……わたし、睦未ちゃんの前だと、相変わらず自分のこと、雪音って言っちゃうんだろうね……
「恐るべきは生活習慣病ってとこか」
「雪音、病気……」
「また言ってるし」
「……あ、むぎゅ、わたし」
「今度はむぎゅってるし」
「全自動皿洗い機……」
「壊滅的だな」
「世知辛いね……」

 おれが頭に手を置くと、雪音はとたん安心しきった表情になって、こてんと体を寄せてきた。

  *  *

 なにか意識改革があり、それによって一念発起したらしく、ついこないだから雪音は「言葉遣いを改めようキャンペーン」に取り組んでいるらしい。
 多少バックグラウンドに触れておく。こいつ、なかなか独特の言語感覚をしており、家電製品名なんかでものを表現する癖がある。それだけにとどまらず、「むぎゅ」「むぎゃ」という一聴すると意味の判じかねるような感嘆詞を多用したり、一人称が自分の名前だったりもする。まあ最後のヤツくらいは「独特」のカテゴリから外しても良いような気がするが、まあおしなべて妙な言葉遣いでしゃべる女であるのは間違いない。
 安藤雪音を構成する要素のうち、その「雪音語」と呼称される(勝手におれがしているだけだが)独自の言葉遣いは割と重要だ。表層に現れてくるもっとも観測しやすい要素だし、理解しないと、円滑な意志疎通は難しい。
 表面上のことではあれど、分かりやすく「雪音らしさ」が伺える部分なのだ。
 それを今更改めようだなんて、いったいどうしたことなんだろう。長いことつきあっているだけあり、今ではこのおれ、暖花に次いで世界二位の雪音語解読学権威なわけで(ひょっとしたらもう抜いてるかも知れない)、別段、コミュニケーション不全に陥ることもない。一般人には難しくても、こと暖花とおれにおいては、雪音の言いたいことが分からないなんてことはないから、支障なんてまるでないのに。それなのに、だ。
 嘘ではない。証拠を披露しよう。こほん、先ほどの「全自動皿洗い機」は「いかんともしがたい、なすすべがない、どうしようもない」の意味だ。何故その意味になるかと言うと、雪音が幼き頃皿洗いを手伝おうとしたら全自動皿洗い機が導入されており、全自動だから当然人間が手伝うことなどなにもなく、手伝いたかった気持ちをいったいどこに持っていけば良いの状態に陥った、なる出来事のせいで、雪音の中では「全自動皿洗い機」がその時の「いかんともしがたい、なすすべがない、どうしようもない」と言う心境と関連づけされているためである。
 話が派手に逸れてしまった。ええとゴホンこのように、別に今まで通りのしゃべり方でも特におれには支障がないのだ。分かるから。
 それにだ。
 雪音がこう言う独特のしゃべり方をするのは、相手がおれや暖花のような近縁者相手の時だけなのである(いや、おれと雪音に血のつながりはないが、まあいろんな意味でつながってるしな)。
 昔はともかく、雪音は今では、他の人間と話すとき、多少スローモーなものの、まあ一般的な口調と呼んで差し支えない口調でしゃべる。大学に入って、第三者を交えて会話するという機会も多くなった。最初は「こいつ、他の人間がいるときは雪音語を使う回数が減るな」程度だったのだが、一般教養をほぼ履修し終える頃には、第三者がいるところで雪音語をまったく使わなくなった。
 不思議に思って聞いてみると、「通じないから」であるそうだ。そこでおれが思いだしたのは、おれが目を覚ましたばかりの頃のことだった。
 数年前、おれは大事故に遭い、アレコレあって記憶喪失になった。年齢一桁の頃からのつきあいだった姉妹のことも、すっかり忘れてしまった。それからしばらくの間、雪音の独特な表現の意味が、分からないこともあったのだ。雪音特有の表現を理解するには、雪音との記憶の共有と、雪音という人間、雪音の感情の動きを理解することが不可欠だ。その時のおれには、その「共有していた記憶」が欠けていた。だから、分からなかった。その後雪音と恋人同士としてつき合いはじめてから、おれはちょくちょく雪音語学の権威である安藤暖花教授の下へ教えを請いに行ったものだ。まあその中身は雪音の思い出話だけなんだが、つまりそう言う知識がないと、雪音語は理解できない。
 なもんだから、雪音語を聞くというのは、言ってみれば一種の特権だった。雪音となにかを分かち合い、理解し合ってないと聞くことが出来ない。「通じないから、言わない」は裏を返せば「通じる相手だから、言う」で、つまり雪音語を向けられる人間とは、雪音が「自分のことを良く知ってくれてる、理解してくれている」相手だ、と認めている証なのだ。

 それを改めるという。
 意欲は評価するべきなんだろうが、少し、おれがさみしく感じているのは、お分かりいただけるだろうか?

 *  *

 まあ、その、なんだ。
 おれに少し体重を預け、「雪音じゃなくて、わたし」などと言っている雪音の体温を感じながら、考える。
 いつの間にかおれたちも、いくつか年を食った。
 おれや暖花は働くようになったし、暖花と雪音は化粧をするようになった。
 酒を日常的に飲むようになったし(雪音は飲まないが)、税金も払っている。選挙にも行くし、暗い話にもやたら詳しくなったし、アイドルは年下が増えてきた。
 つまり、そう言うことなんだろうか。
 それは理解できる。

「雪音」
「むぎゅ? あ……はい」

 聞こうとして、やめた。
 結局、理由なんかどうでもいい。どうあれ、雪音はまた、変わろうとしている。こいつが変わらないのは見た目だけだ。いや、だからこそ雪音は、変わろうとする。外的要素ばかりが変わって、中身はちっとも変わらないおれとは、まるで反対に。

「女性が家庭で調理を担当するケースが多いのは、男性に比べて女性の方が体調の変化で味覚が変わりやすいため、出来る料理の味も一定じゃなく、つまり毎日食べても飽きないから、と言う説があるな」

 そんなわけで、微妙に話の出だしをずらしてみた。

「……料理人さんに男の人が多いのは、そのあたりと関係、あるのかな……」
「そら、あるだろうな。作るたびに味が変わってたら、商売にならんだろうし」
「雪音の……わたしのお料理は、毎日食べても、飽きないかな……睦未ちゃん」
「少なくとも、おれは飽きたことなぞ一度もないぞ」
「ゆき……わたしも、睦未ちゃんのお料理、飽きたことないよ……」

 それはたぶん。
 雪音が毎日変わっているからだろう。

「以上の話は、食べる方の理屈だ。さて、作る方ではどうなるだろう」

 話題を受けておれがそう言うと、雪音はいつもの小首を傾げる動作をして、しばし黙考する。

「……食べてくれる人に、よると思うよ……」

 返ってきたのは、そんな答えだった。

「なるほど、作っても食べる人がいなければ意味がないし、食べたくても、作る人がいなければ適わない。そう言うことか?」
「オーブントースター……じゃなくて」
「そう言うことか」
「うん……そうです」
「食べてくれる人がいるから、作る? 作ってくれる人がいるから、食べる?」
「うん……それが一番、おいしいよ……」

 おれは雪音を抱きしめた。

「むぎゅ……」

 雪音はびっくりしたような顔をして、

「……」

 結局、目を閉じておれにもたれる。

「あ、またむぎゅって言っちゃった……」

 ささやく声は、いつも通りのゆったりとした発声。
 おれは耳朶にそれを、肌に熱と柔らかさを感じながら、考える。
 もし、雪音は、
 おれがいなかったら、変わろうとしただろうか。
 もし、おれは、
 雪音がいなかったら、変わらずにいただろうか。
 その答えはすでに、雪音が口にしていた。
 おれが記憶をなくしたあの事故があって、1年が過ぎて、ひと夏も過ぎて、おれはおれであり続けようとして、雪音は変わろうとしはじめた。それからおれたちははじまった。もっと昔からはじまっていた「幼なじみ」という関係を越えて、「恋人同士」というものをはじめた。
 暖花が言う「いつも通り」とは、つまりそう言うことだ。
 雪音が言う「変えた方がいいと思った」とは、つまりそう言うことだ。
 互いがあって、はじめて、そうしようと思えた。
 互いがいて、そのために今、こうある。
 こうして、ふたり、肌を寄せ合って。

 そしてもう、無邪気に寄り添うには、ふたり歳を取ってしまった。
 だから、自然なことなんだろう。
 おれが言えなかったのは、意識してしまったからだ。
 けれど、その言葉は、特別だけど、当たり前のこと。
 意識することはない。
 それに、おれは、そうしたい。

「ところで雪音、話は変わるが」
「なにかな……」

 雪音が体を倒して向き直る。おれはその肩を抱き寄せ、顔をのぞき込んだ。

「結婚するか、雪音」

 自然な発声だった。
…つづく。