
「結婚しようかと思ってる」
おれがそう言うと、目の前に座っていた単なる酔っぱらいこと安藤暖花は先ほどまでのほろ酔い笑顔から脱却し、ナマチューのジョッキを持ったまま生命活動を停止した。救急車を呼んだ方が良いのだろうか、とおれが考えはじめるくらいの時を経て息を吹き返すと、
「けっこんんん?」
とファルセットで発声、鼻と上唇の間のスモールスペースにマヌケな白ヒゲをまとわりつかせているのでたいそうしまらないが、まあここは居酒屋なので良いだろう。
おれは自分のジョッキを傾けごくりごくりとビールを飲み下し、
「結婚」
暖花とは対照的な、豊かなるバリトンで発声して返す。ぱちぱちぱちと暖花は正確に3回、いつの間にか自然になったシャドウとマスカラに彩られた大きな目をまばたきさせた。
居酒屋であり、夜だった。
実家の方で用事があり、それを済ませて時間が空いたおれは、実家のすぐそばに住んでいる幼なじみであるところの暖花を呼びだした。
「なんだよぅいきなり呼び出してあんたには人の予定を思いはかるっつう機能がないのかあたしゃ仕事で疲れてるんだ」
と言う文句を聞き流しつつ酒飲もうぜと居酒屋に突入、アルコールと食物を摂取するととたんに機嫌が良くなり文句も出なくなる女相手に差し向かいで飲みはじめてそろそろ1時間ほどが経過しようとしていた。
程良く酔いも回ってくれたことだし(暖花に)、呼びだした真なる事情を開陳するにはそろそろ手頃な時間であろう。対する向かいの女の反応は、すでに述べたとおりである。
「のだよ、暖花さん」
「……」
暖花さん、現在は眉を寄せ口を明朝体のへの字の形にしている。数年前、水だと思って思い切りコップ酒を一気飲みした瞬間もこんな顔をしていたなあ、などとどうでも良いことを思い出す。
ウェイトレスが注文を聞きに来た。おれは勝手にふたり分のナマチューを追加注文する。暖花の確か3杯目のジョッキにはまだ3割ほどビールが残っているが、こいつは良く飲む女だしビール好きな女でもあるので問題ないだろう。案の定問題なかったようで、勝手に頼んでしまったことについて糾弾されることはなかった。とりあえず以上で。ウェイトレスは去っていった。
「結婚しようと思ってる」
おれは同じ台詞を繰り返した。
「で、なんだそのおもしろい顔は」
暖花の口は明朝体のへの字からゴシック体のムの字に変わっていた。そしてツッコミに反応してあわてて表情を改めようとして失敗したあたりが暖花ならではと言える。
「いやぁ、その、なんだ、あはは……いきなり言われたからビックリしたもんで。あはははは」
頭のうしろに手を回し、あからさまなるごまかし笑い。心なしか早口にさえなっていた。
「別におまえにプロポーズしているわけじゃない」
一方、おれは冷静である。酒を飲んでも大して変わらない性質だからだ。金払って酒飲んで酔っぱらわないとはずいぶん損な気がするが、酒の席でないと言いづらいこともあるし、まあそのあたりはさておく。
「んなことわぁってるっつーの」
当然暖花の口は、今度は数字の3になる。つくづく顔面での表現力が豊かな女である。二十歳をいくつか過ぎた女のする表情じゃない気もするが、ここはつっこまずにおいてやろう。それにしても、こいつがもう何年も立派に保母をやってのけているのだから、幼稚園児と言う生き物はなんと寛大な生き物なのだろう。
「相手は、当然ゆき」
「って、いや別に、まだ誰にもプロポーズしていないんだが」
言いかけた暖花を、おれの相変わらず冷静さを保った口調が封じる。
「なんだそりゃっ」
暖花は少し眉を寄せた。
「だから、まだプロポーズを誰にもしてないんだって」
「いや、そーゆーことじゃなくてだねぇ……」
ナマチューおふたつお待たせしましたー、と先ほどのウェイトレスがジョッキをふたつ持ってきた。あ、どうも、と暖花は明るく会釈する。律儀なヤツだ。
ぐびぐびぐび。
とりあえずふたりそろっていらっしゃったばかりのビール様を飲む。おれが口を離した2秒後に暖花も口を離し、うれしそうな顔をした。ビールが美味しくいただけてなによりである。昔みたいに飲んだらすぐ笑い出したり泣き出したりしなくなったのもなによりである。
「いやぁ、あっはっは、ビールは美味しいねぇ。あたしゃ思うんだけど、未成年にビールを飲ませないのは、大人が美味しいものを独占したいからじゃないかねぇ」
と、先ほどまでの流れとまったく関係のない話をはじめる暖花である。おれはポケットをまさぐりながら、
「その理屈で行くと、煙草はどうなるんだ?」
少しだけ口を斜めにする。
「ありゃ美味しくないもん」
またも口をとがらせた暖花に肩をすくめ、探り当てた煙草を引きずり出すと、一本抜いて火をつける。ふう。
「なのになんで吸うか、あんたはっ」
「大人だから」
「むうっ、ごもっともなので言い返せないぜチクショー」
おれは腕を組んだ暖花から目をそらし、煙を吸い込み、吐く。 とんとんと灰皿に灰を落としながら、考える。我ながら、こう言った動作がいつの間にか自然になったものだ。そりゃ4年も吸っていれば、動作も最適化されるか。
しかし、本題を切り出しているのに、いつまで経っても話の核心に移行しないな。きっと相手が悪いし、アルコールの影響もよろしくないのだろう。が、ああ言った話はこう言ったところでないとしづらいのもまた確かだ。必要悪と判断すべきか。けども、このままだとおれは肝心の話を忘却してしまいそうであるぞ?
対策案をいくつか脳裏で展開していたところ、ようやく自分がマヌケな白ヒゲを生やしていることに気づいたのだろう、おしぼりで鼻の下をごしごししつつ、暖花は、
「それで?」
と口にした。
「要するにだ」
展開していた対策案が不要になったので速やかにイニシャライズし、同時に「肝心な話」を脳内レンジで温め直す。
「ふむ」
暖花はおしぼりを置き、おれをまっすぐ見る。
「結婚しようと思ってるんだが、まだプロポーズをしていないと言っているのだよ、おれは」
「話が進んでないじゃんよっ」
「だからこれから言うと言っているのだよ、おれは」
「……」
ごくごくごく。暖花はビールを飲む。おれはまだしつこく残っているお通しを箸先でつまみ、結局元に戻す。
「ひとつ、聞いておきたいんだけどさぁ」
「なんだ。誕生日は5月2日だぞ」
「んなこたぁ知っとるっつーの!」
「プレゼントください」
「まだ来てないでしょーが、5月2日」
確かにまだ4月である。
「なあに気にするな。おれは気にしないぞ」
「相手は雪音……だよねぇ?」
暖花の目が細くなっているので、ちゃかすのをやめて真面目に答えることにする。望むところではあるし。
「雪音だ。他に誰がいる」
「いやぁ……そりゃよかった。この期に及んで雪音以外の女の子と結婚するとか言い出したら、あたしゃどうしようかと」
「おれはそんなに浮気性に見えるのか」
口調は平坦で、見た目は平静だが、内心密かに悲しかったりするのは暖花にはナイショにしておいてくれ。
「いやっ、別にだぁね、そんな風に見えるって言うわけじゃなくって」
あわてて一生懸命否定してくれる暖花はいいヤツである。
「ただまぁ、なんだ、雪音からさぁ、あんたがけっこおモテるっていう話を聞かされてたもんで、ちょっと先走って想像しちゃったよぅ。いやぁ申し訳ない」
前言撤回。勝手にいらん想像をする暖花は困ったヤツである。
「おれは誰にも持たれてないぞ」
とりあえずクギを差しておく。これはマジである。大学4年間を通じて、おれは雪音以外から春の呼び声を聞いたことがない。まあ、ずっと雪音と一緒にいりゃ当たり前なんだが。
「少なくとも、雪音にゃモテてるでしょーが」
「あまりそう言うことを言わないでくれ」
「なぁに照れてんだか」
ふーっ。鬼の首を取ったかのようにしししとケンケン笑いをする暖花に、おれは素早く煙を吹きかける。うわっなにすんだコノヤロー美味しくないっていってんでしょーがそれ、と暴れる暖花は周りにたいそう迷惑なことだろう。そしてコノヤローはこっちの台詞である。
ところで今更ではあるが、先ほどから話に出てくる雪音なる人物はフルネームを安藤雪音と言い、苗字から分かるように目の前で暴れている酔っぱらいこと安藤暖花の血縁者、率直に言うと妹であり、そしておれがプロポーズだどうのと言っているのだから、つまりおれの恋人である。
ひとことで言ってしまうと臆病な仔犬か仔猫がなにかの呪いで人間になりそのまま成長してしまったようなヤツで、現代を生きるちょっと系統の違うカスパール・ハウザーと言った風情を感じさせる女だ。まあ王子様であるところのおれがキスで呪いを解いてやった以降はずいぶんと人間らしくなってきているのだが、とりあえずそれは良い。
「なんでプロポーズ、してないのよぅ」
しばらく放置プレイされていたためやや乾き気味のネギマ串を口に入れ、暖花がぶっきらぼうな口調で言う。もぐもぐしながら少し切なそうな色を見せているのは、たぶん美味しくなかったからだろう。
「率直に申し上げますと」
「ふむ」
「どう言って良いか分からない」
「……」
「だからおもしろい顔をするなと言っているだろう」
「いや、あっははは、ごめんごめん。しかしまぁなんだ、意外だぁねぇ」
「なにがだ」
「あんた、そーゆーのめちゃくちゃ得意だと思ってたわ、あたしゃ」
「そーゆーの、とは、どう言うのだ?」
「なんだその、クッサイ台詞?」
「いや、おまえの見切りは間違えてない。確かにそう言うのは得意だ。クサい台詞なら任せておけ」
「いや、とっくの昔から任せてあるけどね」
指につまんだままだった煙草を唇に運び、一口吸ってから灰皿に押しつける。暖花はおれの事情が見えてきたようだ。先ほどまでの渋い表情から変わって、自分の予報が当たったときの気象予報士のような笑みを浮かべている。
「得意なはずなのに、言えないってか」
にやつく暖花の口から出てきたのは、まさしく今のおれを表現するに過不足ない言葉だった。おれはすぐに答えず箸を取り上げて、ほっけの半身をほぐほぐする。
「食べないんならほぐすのやめなさいっての」
「なんで言えないんだろうな」
「……」
頬杖をついてまた表情を改めた暖花を受けて、おれは我が身を振り返りはじめる。
かちゃ……かちゃ……。
……かちゃ……かちゃ。
「あんたが」
不意に、暖花が口を開いた。おれは考えるのを打ち切り、伏せていた目を向ける。
「それだけマジってこった。いーことだよ。ほいほいっとお気軽に切り出させないって、そう思ってるってことでしょうが。それだけあんたが、雪音とのこと、まじめに考えてるんだ」
頬杖をついたままの暖花は、ここ数年で浮かべるようになった表情をしていた。
「もしだ」
「なぁに」
「もしだ、おまえがプロポーズされるとしたら、どんな風にされたい?」
「……」
少し目を細めて、暖花は考え込む。おれは答えを待って、手元のつまみをいじる。
「どんな風でも、かまやしないねぇ」
暖花が放り投げるように言った。
「……」
おれはそれを、下を向いたまま聞いている。
「あたしがあんたにされるなら、いつも通りにして欲しい」
「そう言うもんか」
「そりゃそうよぅ。長い『いつも通り』があったからこそ、そーゆー結論が出たんだもの」
「しかしそれだと、おまえが困ると言ったほいほいっとお気軽な台詞になりかねないぞ」
「あんた、雪音と5年以上お気軽につきあってたわけ?」
「……」
なるほど。
「だから、特別な台詞だけど、当たり前の台詞。そーゆーもんだと、あたしは思うけど」
おれは顔を上げる。
……暖花はそっぽを向いていた。
「暖花」
おれは言う。
「なぁによぅ」
暖花はそのまま返事する。
「結婚するか」
「……」
一瞬こっちを向き、またそっぽを向く。
「まじカンベン」
「……」
「……」
「……」
「……」
「こんな感じか」
「だぁね」
暖花はそこでくくっとおかしそうに笑い、
「本番では、いい返事が聞けるといーねぇ」
おれはジョッキを傾け、一気にビールを飲み干した。
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